初めての友達へ


私の人生初めての友達へ。

あなたが現在何處で何をしていて何を想うのか私は知らない。連絡先なぞ以ての外である。
私を想うのか、消そうと試みるのかも知らない。


疎遠の原因が "より賢くなる爲" の術だとすれば、そのフィルターを經た現在に再度想うことは必然ではなかろうか。少なくとも私は現在進行的にそうである。

勿論、此れに至るのは複合要因だったが、どれもこれも現在の私を形成するに至った體驗に關るモノである。


> 記憶を消すのは簡單ではない、人の記憶は然う然う消えない。

これは當然の事實であるが、上記の體驗の1つに於いて改めて強く認識した事です。
あなたであればこの時點で私が何を云いたいのかが察せるでしょう。
それこそが改めて指摘したい事實。

私の核(core)にはあなたと謂う "人物" が非常に強く記錄されている。
人間性, 考え方, いや、潜在意識, もっと人間の根本的な、表意不可能な部で影響されている。意識の有無に關わらず。
あなたの核にも同樣に私と謂う "人物" が非常に強く記錄されている。

私は現在迄意識していなかった。(若しくは、敢えて意識させない樣に作用した)
フィルターの出口で(或いは強制的, 必然的に)意識をした結果、當然の, 必然の事實を(再度)認識するに至った。

我々の關係性や相互感情は例えば "良", "惡"、"好", "嫌"、"信" "不信" 等の一元的な統一尺度で觀測する事が出來ず、加えて非常に髙度なコミュニケーション狀態である。云わば重ね合わせ、
> ボクの侭でキミになる
が見事に實行されている。(あなたにとっては實行させられていると捉えられる可能性もあるから一應其の點を言及して於く)


若しも "運命" が存在するのなら、我々は "運命共同體" となる。但し表面的には相互の了解は無いが。
また、人間關係はしばしば "縁" により表現されがちだが、我々の關係性にはそもそも縁の概念は適用出來ない。書く迄も無く理由は先述の通り。


あなたが意識的に變わろうとする事や、そもそもあなたの行い全體に何か要求する事は無い。どう變化したとしてもあなたは私の核である。當然逆も然り。
よってフィルター作用的に私を消そうと試行する事自體に何かを唱える事もしないししたくない。
冗長になるが、私はあなたの最深部で作用しているから。
あなたが何を認識しようと、變化を試行しようと、叉は其れに "成功" (したと認識) しようと、一部事象に "嫌" を捉えようと、上記は "事實" で "眞理" ある。最早互いに自分自身だ、と。


我々は互いに互いを "解っている" が "知らない"。
私は最もあなたを "解っている" 當事者だが、最も "知らない" 他人である。
あなたは最も私を "解っている" 當事者だが、最も "知らない" 他人である。


私は、今直ぐにでも知ろうと思えば現在のあなたを知れる。連絡先だって入手出來るでしょう。だがそれはしない。
この文章をあなたに飲み込んで欲しい譯でも無い。
こんな怪文を閑散とした此處に投下した理由の1つに、自分自身で整理したかったから、と謂うのもあり。


若しこの先直接話す機會が發生したならば、同じ核を共有した狀態での會話を樂しめるだろう。その時は現在のあなたについて "知れる" と想うよ、━━━━。

 

以上